私がTwitterで病みツイを辞められない理由

初めに

私と関わり始めて長い人は特に良く知ることであろうし、まだ短い人もこの記事が出る直近のことからして、私が重めの病みツイをすることはご存じだと思います。
このことに関しては3年前から変わっておらず、ダメだとわかっていながらも呟いてしまう。ずっといやなものを見せられ続けてきたフォロワーの皆様には大変申し訳ありませんでした。

 

ダメだと思いながらも、不特定多数に見られるTwitterという場でどうして病みツイを続けてしまうのかについて、1つ考え付いたことがあるのでここに書き記していこうと思います。

 

なぜ病みツイをしてしまうのか

そもそもどうして病みツイをしてしまうのか。私がする病みツイはだいたいは自己への批判か特定の者に対する批判です。時にはかなり先鋭的な思想のツイートもしています。
これらのツイートをする状況としては次のようなことがあります。

  1. 嫌なことがあり、自分の努力不足だと感じた時。
  2. 極一部の私が本気で嫌っている人へ何かしら思う時があった時。
  3. TLに流れてきたツイートに影響された時。

1は病みツイの大半を占めていると思います。人間関係の問題だったり、他人と比較し無力感を感じた時、自身で決めたことが守れなかったときなど、自分がもっとこうしていれば、ああしていればよかったのにと思った時に病みツイをしてしまいます。
単に自身の内にとどめておく、又は次はこうしようとかポジティブな行動をつぶやくのならいいのですが、私の場合は自己への痛烈な批判をします。正直、ツイートしている内容以上に心では自己否定をし続けています。
自己否定をしてしまう背景に触れるのはこの記事の趣旨ではないので割愛をしますが、自分に自信がなく否定的なところが病みツイにつながってしまうと言えます。

 

2は人の悪口や不満は人に話すべきではないという抑圧が臨界点を迎えて爆発してしまった時に起こります。幼いころから人に悪口は言うなを言い続けられ、自身もいじめなどで言われる側であったため、基本的に自ら言うことはありません。しかし、悪口や不満となる事柄は人間社会で生きている以上、必然的にたまっていくものです。別の形で消化できているうちはいいのですが、やはりそうはいかないときがあります。この時に愚痴として親しい人に聞いてもらえることができればいいのですが、私にはそれができませんでした。(今もなかなかできないですが)
こうやってたまった不満などを消化することも吐き出すこともできずにため込んだ末、病みツイという形で爆発をしてしまいます。

 

3はTLで流れてきた話題に対して自分も思うことがあり、つい話したくなった時に生じるものです。このついが厄介でありなかなか止められません。衝動的にしてしまうのです。(1,2にも言えることです)
今まで燻っていたり眠っていた不満などが、TLに流れてきた事柄により刺激されて、これを内にとどめておきたくないから、話題に乗っかる形で吐き出してしまいます。

どうして病みツイをしてしまうのかをまさにこの記事を書きながら考えて書きましたが、冷静に理由を見ると自己管理のできないはた迷惑な人ですね。正直あんまり関わりたくはないですね。今までかなり迷惑をかけてきたと思うと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

先の影響や、見た人がどう思うかを考えない点についてはまた別問題なので割愛します。大体は衝動的にしているがゆえに、そこまで気が回らないのが正しいのですが、他にももちろん要因はあると思います。

 

なぜTwitterなのか

TwitterはいわゆるLINEやDiscord、Slackなどの1:1や少人数のグループによる会話前提のツールとは違い、オープンな場での発信となる。
LINEなどは相手の返信や反応をもらうことを前提として利用する。対してTwitterは必ずしも他者からによる反応は必要ではない。
LINEなどは特定の人と会話するために使用する。つまり、日常生活や仕事上で行う対面での会話とさして性質は変わらない。(コミュニケーションに使用する情報量の違いはここでは気にしないものとする。)そのため、たとえ仲の良い人であろうが、ずっと(又はいきなり)不満やら愚痴やらを聞かされ続けたら嫌になるのは明確である。最初はよくても次第に返事がそっけなくなり、無視されたり逆に怒りをぶつけられることになると思います。

対してTwitterは会話が前提ではない。反応がなくてもいいわけである。たとえ見た人が不満を抱こうと直接リプライやDMが飛んでこない限り、発信者はそのことに気づくことがないのです。(いいとは言ってないです。)


要はTwitterで永遠と不満や愚痴を言い続けても直接的かつ明確にわかる発信者への不満をほぼ受け取らないので、話を聞いてくれた、受け止めてくれたと錯覚できるわけです。これが、Twitterでしか病みツイをしない理由になります。
話をきちんと聞いて欲しい、受け止めてほしい。けれども特定の人に言うのは嫌われそう、避けられそうで怖くてできない。もしくは、否定されてしまう、私が話したいのに相手のアドバイス経験談を聞くだけになってしまう。これらを回避しながら、話を聞いてくれた、受け止めてくれたとTwitterでは感じ取れるので、やめることができないのだと思います。(怖いもしくは否定や聞いてくれないに関しての理由も割愛します)

 

上記の理由により、例え好意的な反応だとしても、反応をもらうとは考えていないので、リプなどがあると戸惑ってしまいますし、後悔してしまうことが多いです。後悔しても反省はしていないので続けてしまうのが問題ですが。

LINEやDiscordの1人用ルームでは代替ができない

反応がなくてもいいのであればLINEやDiscordの1人用ルームでよくないかと思います。実際に私もそう思ってやってみた時期がありました。しかし、すぐにTwitterでつぶやいてしまいました。
これに関しては本当に1人だけだと認識しているから、聞いてもらっている実感や錯覚が得られないからだと思います。
LINEなどは会話をするツールです。ということは必然的に閉じた空間であり、参加者に半強制的に見せて反応をもらう場でもあります。このような認識で普段から使用しているツールなので、1人用ルームは自分しかいない虚空に投げかけているという認識になってしまいます。誰かに聞いて欲しい、受け止めてほしい思いを満たすための誰かが存在しないことも必然的にわかってしまいます。これにより、Twitterの代用には至らなかったのだと思います。


Twitterは普段から使用しているからこそ、つぶやいたら誰かには見られるのが実感としてわかります。だからこそ、誰かに聞いて欲しい、受け止めてほしいという思いの誰かを求めてツイッターでつぶやいてしまうのかもしれないです。

 

誰にも公開していない鍵垢なら代用になるのではないかという疑問があります。ただこれは、誰もつながっていない=誰にも見てもらえないということになり、やはりつぶやかなくなるでしょう。


知り合いに教えずに新規垢でつぶやく手もありますが、ふとした拍子にちゃんとした人間にフォローされて見られたり、おすすめ欄に持ってかれて見られてしまい、傷つけてしまう可能性が払しょくできないのでこれもできないです。(何よりも制御されてないTLと業者垢からフォローされまくるのが耐えられない)

 

さらに言うと紙のノートやNotionなどのライティングツールなどに思いを書くという手があります。
紙のノートは常に手元にあるわけではないので現実的ではありません。一時期、紙のカードとペンを四六時中どこであろうが持ち歩いていた時期がありますが、病みツイの代用にはなりませんでした。
Notionなども利用してみましたが、こちらも代用にはなりませんでした。
両者に共通するのは、記入する手間です。(もちろん上記で述べている誰かに見られていないのも大いにあります)

紙のカードは、紙を取り出してペンを用意して書く手間があります。また、手で書くので思考の速度に追いつきませんし、あとから簡単に読めません。管理する手間も生じます。
Notionは高機能で便利なツールです。しかし、愚痴用のページを用意したとしても、アプリを立ち上げて、ページにを開いて、記入箇所に記入するという手間があります。

対してTwitterはつぶやくだけです。中毒者なのではぼ常にTwitterを開いている上に、Twitterを閉じたらTwitterが開いてたのが日常なくらい手間と思うことがありません。

 

どうしてもTwitterで病みツイが止められない

Twitterは手間がないうえに、明確な不満や拒絶、否定などを受け取る機会が乏しいうえに、誰かが話を聞いてくれて受け止めてくれているという錯覚を得てしまいます。
日常生活では話を聞いてくれる、受け止めてくれる人がいない(事実ではなく思い込み)ので、この欲求を満たすために繰り返しているのだと思います。
そもそもどうして話を聞いて欲しい、受け止めてほしいと思うのかは、幼少期から親に補なしを聞いてもらえず、受け止めてもくれなかった事に起因すると考えられます。これについては愛着スタイルや愛着障害で検索すると出てくると思うので、詳しく書かれている方にお任せします。


愛着障害 子供時代を引きずる人々』(光文社新書、2011年)には次のように書かれていました。

何でも話せる人を持つことが、心身の健康を守るためにも、愛着障害の克服にも必要なのである。
中略
傷つけられたり、説教されたり、秘密をもらされたりする心配なく、何でも話せる人をもつことが、それを媒介として、変化を生み出す第一歩なのである。
中略
本やネットの世界が、仮の安全基地となっていることも多い。(p264)

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私にとってTwitterで病みツイをしてしまうのは、Twitterを仮の安全基地として、なんでも話を聞いてくれる相手として見ているからではないかと思います。

 

病みツイを止める

いくら私にとってTwitterで病みツイをするのが心の安定を保つ手段の一つとはいえ、このツイートを見てしまった人には大抵不快感や嫌悪感を与えてしまいます。これでは、実際の交友にも影響が出てしまい、また病みツイを生むことになり悪循環となります。(実際に生じているので大問題です)
なので上記の引用のように何でも話せる人を見つけるのが最優先かと思います。幸いにして、実は何でも話せる人が身近にいたのは最近気が付いたので、その人たちに頼っていこうと思います。
また、Misskeyの1人用インスタンスでなら代用できるのではないかと思っています。確かに、誰かに見られている感覚はありません。しかし、雰囲気はTwitterに似ており、つぶやく感覚は同じだと思います。Twitterの別垢でもいいのではと思いますが、それだと切替ミスやTwitterに対しての認識ゆえの見られていない感覚が生じてしまいます。Misskeyなら、この辺の感覚がないです。なので、うまいこと錯覚させて切替させることができるのではないかと思います。ちょっと反応が欲しければ、botを作ってランダムに反応してもらえるようにすればいいわけですし。(正直、botからの反応でも事足りるのではないか疑惑はあります。)


ひとまず、この記事を書く直前にインスタンスを立てたので、もし私の病みツイだけでも見たい人がいたらお声がけください。ドメインの設定やオブジェクトストレージ、DNSあたりの設定が整い次第招待します。

最後に

記事内で引用した本を読んでいるうちに、主題である私が病みツイを止められない理由について思い当たりました。一度記事にしようと思い、こうして記事を書きながら考えることで、自身の理解につながり対策を立てられることができました。
ここまで長々と読んでいただきありがとうございました。もし何か意見や感想などあれば伝えてくれると幸いです。